疲れる社会ですわ

 

 

疲労社会を読んだ。

 

昨今のジョブ型雇用と少しリンクする話だと思ったので、そういった部分で得た気づきについて短くメモしておく。

 

  • 規律社会とその後の社会

フーコーが主題化した規律社会とは、病院・精神病院・兵舎・監獄・工場といった制度に支えられた社会であったが、それはもはやこんにちの社会ではない。こうした社会はとっくに別の社会に取って代わられている。それはつまり、フィットネススタジオ・オフィスタワー・銀行・空港・ショッピングモール・遺伝子研究室といった制度に支えられた社会である。(P25)

 

規律社会では、画一的な労働力を必要としていた。

これは、工場などで働く人間には、画一的なパフォーマンスを発揮してもらう必要があったからだ。

だからこそ、規律社会では[人々を従順な主体へと育てた監獄や精神病院]が必要だったし、この社会においては、「してはならない(must not)」「すべき(should)」が支配的だった。(ちょっと抽象的)

 

対して、現代は能力社会である。

能力社会では、「できる(can)」がその社会を体現する助動詞である。

 

この社会の変化がなぜ起こったかというと、工場が海外に移転することで単純労働の需要が無くなり、画一的な人間を育てることで生産性を上げる段階から、知的産業の段階へ移行したからだ。

つまり、社会は依然として生産性を上げることを求め続けている。

ここまで読んでから、なぜ最近の労働市場では「得意を見つける」とか「好きなことを仕事にする」といった言葉が優勢になったのか理解できた。耳障りのいい言葉に聞こえるが、社会は依然として効率化を求めているのである。どんな人間でも、「好きなこと」「得意なこと」はあるはずで、人間が個別に持つ”最大限効率化できる作業”にまい進することが社会からの要請なのだ。

 

  • 能力社会で生まれた病気

アラン・エーレンバーグは、うつ病を規律社会から能力社会への過渡期に位置付けている。「(略)新たな規範は、各人に個人の自発性を要求し、自分自身になることを義務付ける。(中略)うつ病患者は体調がすぐれない。彼は自分自身にならなければと努力することに疲弊している。」(p28)

 

また、能力社会に内在し、心の梗塞を引き起こすシステムの暴力も見落としている。自分自身にふさわしい存在になれという命法ではなく、能力を発揮し成果を生み出すことへのプレッシャーによって、人々は疲弊し、うつ病を患うのである。(p29)

 

うつ病のメカニズムについてこの辺りは説明されている。また、「憂鬱」が異質な人間に独特の病だとしたら、「うつ病」は大衆化された病であるという記載もあった。

ここのあたりはとても面白く、「できる」ことが少ない凡人たちが能力社会に適応できずに発病するのがうつ病のように思われるが、エーレンバーグによれば、”規律社会の命令や禁止が、自己責任や自発性にとって変えられるとき、うつ病が社会に蔓延していく”とあるので、「できない」ことが必ずしもうつ病の発病に関わるとは限らないのである。

 

(略)この特異なテクニックとは、複数の作業を同時に処理するマルチタスクのことであるが、それは文明の進歩を意味しない。マルチタスクは、後期近代の労働社会及び情報社会に生きる人間だけに可能な能力ではない。むしろそれは退化である。マルチタスクは野生動物にも広くみられる。注意に関する技術は、野生を生き抜くためにも必要不可欠なものである。

 

マルチタスクについての記載については、他の書籍で「マルチタスクはタスクの細分化の後にレーザービームのような集中力で一つずつ片づける」ものだと読んだことがあるので、別に退化しているかどうかは人それぞれだろうと思う。

ツムツムの♡が貯まった通知を常に意識している人達は退化していると言えるかもしれないけれど。

 

 

  • かんそう

広くみられる世界の肯定化(can:「できる」の命法が支配的な社会)という流れの中で人間も社会も、能力を発揮して成果を生み出し続けるだけの自閉的な機械へと変貌していく。

 

アフターコロナが終わった世界がどのように変化するのか?それはよくわからないけれど、うつ病が大衆の病だとわかってから、俄然かからないように努力したくなった。

私は能力を発揮して成果を生み出すことができる人間になりたいけれど、おそらく多くの人間はそうなれない。なのに私にも「できる」からと努力すると、燃え尽き症候群になったり、うつ病になったりするのだろう。

ちょっと前に、ブルシットジョブを読んだ。本当ならいらない仕事や、非合理的な仕事、雇用主の見栄の為に働いている人間。こういった人間が全て一掃された社会は、より一層苛烈な能力社会になるのだろう。私は、それでいいと思わなくもないのだけれど、そういった社会は「能力を発揮して成果を生み出し続けるだけの自閉的な機械へと変貌していく」ことになるのだろうか?